きょうもきれいなあめがふります
手に入れたものは、必要の無い愛だという事に。
失うべきものは、もういらないということに。
漸く、この期に及んで、気付かされた。
暫く、アッシュフォード学園には戻っていなかった。
否、これから先決してあの陽だまりのような空間に戻ることはないだろうけど。
だけどひとつだけ、たったひとつだけ忘れてきてしまったものを捨て去るために、俺は学園内に設けられたクラブハウスへ出向いた。
懐かしい匂い、懐かしい風景、懐かしい思い出。
此処は偽りの地でもあったけど、しかし俺は此処で大切なことを学んだ。
そうして失ったものにも気付かされて、漸く決意が出来た。
もう戻ってくることのないだろう、だだっ広い玄関ホール、今にも奥からロロがおかえりなさい、て出てきそうである。
失ったものは、大きい。
「…、」
そろそろだ、電話で呼び出しておいた彼女が此処へ到着するのは。
何日かぶりの電話で、彼女は既に大泣きしていた。
きっと涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いたんだろう、話したいことがある、と言って電話を切って数分も経たぬ内にその足音は聞こえた。
しゅ、と開く扉。
逆光で影になる愛しい愛しい、最愛の彼女。
リンはやはり涙で頬を濡らしていたが、一度俺の姿を見た瞬間、再びその大きな瞳から涙を零した。
「る、るる、…しゅ…!」
小さな身体が勢い良く俺の胸に飛び込んでくる。
しがみ付くように背中に手を回され痛いほど抱き締められて、俺は改めて彼女の存在に、その意味に動揺した。
「ルルーシュ、会いたかった…っ、ルルーシュ」
呪文のように俺の名前を呼び続け、泣き続ける彼女に申し訳程度に背中を摩った。
ほんとうは。
本当はこの身体を壊してしまうほど抱き締めてやりたい、会いたかったよと息ができなくなるほどその唇を奪ってしまいたい。
だけどそれはもう、許されぬことなんだ。
縋るように抱きつく彼女の髪を指に絡め、一度だけ、一度だけその身体を抱き締めた。
壊れてしまわぬよう、そっと、優しく、最後の愛を込めて。
リンは安心したかのように身体の力を抜いて、嗚咽を漏らした。
「うっ、ふ、…、る、るしゅ…、」
彼女に名前を呼ばれるたび、決意が鈍る、砂の城の様に崩れていくのが分かる。
駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ!いけない、俺はもう決めたのだ、今更後戻りは出来ない。
ギアスに翻弄されて死んでいったシャーリーのためにも、命を捨てて俺の明日を望んだロロのためにも、そして世界を見つめる前に死んでいった妹のためにも。
俺は、もう、彼女に縋ってはいけない。
震えるその肩をぐ、と掴み思い切り俺の身体から引き剥がした。
瞬間、涙でぐしゃぐしゃのその瞳が此方を向く。
明らかな動揺、それでも、それでも何も思ってはいけない。
目を丸くして俺を見つめるリンの肩から手を退かし、顔を反らす。
さあ、言うんだ。
「リン、…別れよう」
その言葉が、音の羅列が脳裏に響く。
自分で発した言葉だというのに、まるで鈍器で頭を殴られたような錯覚に陥った。
そうして当の本人、リンは、何を言われたのか理解していないのだろう、ぱちくりと瞬きを繰り返して此方を見つめている。
ああ、ああ。
ごめん。
「え?」
「…聞こえなかったか、別れよう」
もう一度、確かめるように言えばリンの双眸から再び大粒の涙が零れ落ちる。
「な、なんで、なんでルルーシュ、」
震えだすその肢体を思い切り突き放して嘲笑を口元に浮かべる。
少女の悲痛なまでに歪んだその表情を見ているのは、死ぬほど辛かった。
耳が痛いほどの沈黙、玄関ホールにはただただリンの震える吐息が響く。
「うそ、でしょ?ねえ、」
「今の状況考えたって分かるだろ、俺はきっと暫く此処へは戻れないだろうし、これ以上…」
「やっ、やだ!あたし、ルルーシュが何日帰ってこれなくたって大丈夫だから!」
しがみ付くその小さな手さえも振り払う。
だってそうでなければ俺の、俺の最後の決意さえもこの少女に壊されてしまいそうで。
涙を必死にあざ笑う笑みに変える。
その度心臓に鋭利なそれが刺さって、眩暈がするほどの悲しさが苦しさが全身を襲った。
ぽろり、ぽろり、大きな黒い瞳が揺れている。
「ずっとずっと待ってるから、だからそんなこと言わないで…っ!」
「駄目だ!これから先だって」
「大丈夫だからっ、あたし、ルルーシュがいなくてどんなに寂しくたって、ルルーシュを想って、繋がっていられれば…」
「だから!」
あまりに聞くに堪えない悲痛なそれに、思わず声を荒げる。
やめてくれ、やめてくれ、
もう、俺を見ないでくれ。
もう、俺を想わないでくれ。
俺は決めたんだ、後戻りはできない、これが全ての罪への償いなんだ。
「…なんでこんなこと言ったか、分からないのか?」
困惑した顔、心臓が掴まれた。
「お前が嫌いだからだよ、リン」
限界まで見開かれた瞳が、大きく揺れて、薄く開いた唇が、明らかに震える。
「嫌いだよ、お前なんて、」
「…、る、」
「嫌いだ、もう、連絡もするな、顔も見せるな、」
るるーしゅ。
唇が確かにそう動いた。
「…、」
視線が堕ちて空中を彷徨った。
まるで幼子のように現実を否定するかのように、揺れ動く視線の先。
そうして白い頬に再び涙が伝い、リンが漸く此方を見た。
「る、ルルーシュ、は、どうするの…、」
押し殺した涙声の所為でよく聞き取れないそれに、必死に耳を傾ける。
「ねえ、あたし、知ってるよ、もう、ロロはいないんでしょう」
「…、何を」
「ロロは、いないんでしょう、もう、…シャーリーは?シャーリーも、もう、いないんだよ…?なら、ルルーシュ、貴方は」
言葉を失う。
この少女は何を思ってそんなことを口走るのか。
何故、ロロという少年がいないことに、気付いたのか。
俺のために死んでいったロロに、どうして。
「うるさいっ!お前なんて嫌いだ!大嫌いだ!」
「あっ、あたしのこと、嫌いでもいいからっ、だからあたしだけはルルーシュの本当になりたいっ!」
「お前には関係ないんだっ!」
「でも…っ、」
「黙れ!!」
その口を閉じさせたくて、その言葉をもう耳にしたくなくて。
気付いたら掌がじんじんと熱を持っていて、気付いたら少女は不自然に顔を反らしていて、気付いたら少女の白い頬が赤く貼れていて。
彼女の頬を打ったのだと、漸く、気付いた。
「あ…」
情けない声を漏らしたのは俺の方。
リンは驚きに眸を開きながらも、しかし何も言わなかった。
言わずに俺に叩かれた頬にそっと手を添えて、視線を泳がせた。
少女は泣いてはいなかった。
「リン、」
「ご、めん」
俺が何か言う前に、急かすようにリンの口が開いた。
その愛しい愛しい黒の眸は此方を向いてはいなかった。
「ごめ、んなさい、ごめんね、る、ルルーシュ、ごめん」
「…、」
「ごめんなさ、」
泣いた。
リンは小さく涙して、俺を見る。
「あたし、ルルーシュが、こんな、好きだったけど、ごめんね」
ごめんね、本当に好きだったの。
ずっとずっと寂しくても、ルルーシュが好きだった。
だけど、ごめんね。
覚束無い足取りで、リンは後ずさるようにして俺から距離をとる。
そうして開く扉。
彼女が此処へ来たときと同じように、彼女の身体は逆光で影になった。
「さよ、なら」
少女は舞うようにして身体を翻して去った。
振り向き様に涙が日光に反射してきらりと光る。
赤外線に感知するものがなくなった扉はしゅんと閉まり、静寂と暗さが戻った。
瞬間、こつりと響く足音。
若草色の髪の毛が靡いた。
「ギアスを掛ければよかっただろう、」
「俺は、あいつには、本当でいたかったんだ」
「今のがお前の本心か?馬鹿みたいに突き放して、それがお前の本当か?」
俺の本心。
俺は優しい世界を創りたいんだ。
ナナリーのために、リンのために。
だけど、その過程できっと彼女は哀しんでしまう。
だから哀しんでしまう前に、俺のことを嫌いになってもらわなければならなかった。
こつり、こつり。
女が近づいてくる。
そうして女は俺の正面に立つと、ぬ、とその白い腕を伸ばした。
ふれる、冷たい指先。
少女は哀れむように表情を歪めた。
「私はお前の決めた未来にただ着いていくよ、わたしだけは、お前を離れない、お前の見方でいる」
だから、泣くなルルーシュ。
俺の頬をなぞったC.Cの指先は、うっすら濡れていた。
(そして俺は世界を創り上げる、彼女の本当の涙も知らずに)