おかえり、コメット


その日もやっぱり木枯らしが吹くほど肌寒くて、暖房を点けない室内は信じられないほど寒かった。
パジャマの上にパーカーを着て、その上から毛布を被ってもまだ寒い。
だけど暖房を点けてしまえばきっと寝てしまうだろうから決して点けない、点けない上でこうやって起きていられるのだから。
スザクと暮らし始めたのに特に理由なんてなかった。
きっかけもない、気付いたら彼と住んでいたのだ。
だけど一つ屋根の下で、あたしと彼の間にそういった男と女の関係が匂ったことなんて一度もない。
きっと同じ空間にいるだけの、そんな存在。
でもあたしはスザクといれることが嬉しくて(絶対に言えないけれど)スザクを近くに感じられるだけで幸せだったからそんなことを口にしたことはない。
最近スザクの帰りが遅い。
彼はナイトオブラウンズ、一軍人のあたしのようにさっさと帰ってこれるはずもなく、一週間のうち夜中の零時を過ぎる前に帰ってこれることは多分2回ほど。
寝た後にひっそり帰ってくるスザクに、あたしが起きてしまう前に出勤してしまうスザクに、あたしはどうしても会いたくて最近は彼が帰ってくるのをこうして待っているというわけだ。

「…さむ」

ふとテーブルに置かれた皿に視線を向けて先ほどの事を思い描く。
夕方、ミレイ会長に電話して作り方を教わったビーフシチュー。
温かみが削げ落ちたそれを見つめ、あたしは襲い来る睡魔と奮闘していた。
しゅん、と空気の裂ける音のあと聞こえる足音、帰ってきた、まだ零時ちょっと過ぎ、今日は結構早かった。

「おかえり、スザク」

ぱたぱたと駆け寄って声を掛ける。
黒のインナーの上にダウンを羽織っただけの彼はやはり外が寒かったのだろうか、鼻先は赤く染まり、ひっきりなしに手を摩っていた。
そうしてあたしの姿を確認すると、別段表情を変えることもなく口を開く。

「…まだ起きてたの?」

「うん、スザク待ってたくて」

「…」

一瞬だけ面倒くさそうな顔したな。
そう心の中で毒づいてからスザクがテーブルの上の皿に視線をやっていることに気付いた。
食べてくれるだろうか、いや、もう冷め切ってしまい今から暖めても作りたての味は出せないだろうし、食べてくれないだろう。
彼の返答を待つ間、部屋内には不自然な沈黙が走った。

「凛」

「なに?」

「ご飯、作っておいてくれなくていいから」

一言、そう言ったスザクはくるりと踵を返してダウンを脱いだ。
そう言うとは思っていたから、別に落ち込んだりはしない。
元々スザクは驚くくらいあたしに関心がないのだ。
話しかけても軽く無視されることも、起きて待っていても何も行ってくれないときなんて常。
だから今日もスザクがシャワーを浴びるために部屋を後にする際、そっとビーフシチューを捨てようと皿を手に取った。
だけどスザクは何を思ったのかふと足を止めると再びこちらを見る。
思わず肩が揺れた。

「それから、毎日毎日僕の事待ってなくていいから」

「…、どうして」

「…疲れる」

間髪待たずに言われた言葉に、視線を落とす。
今目を合わせてはいけない気がした(だってもしかしたら。)
スザクは何を言わないあたしを一瞥してから今度こそ部屋を後にする。
急に音の消える冷え切ったリビング、ぶるりと身震いをしてからあたしは皿を手にし、キッチンへ向かった。
サラダとそれからビーフシチューをがさがさと備え付けの塵箱に捨てる。
ぼとり、ぼとり。異様な音を立てて塵箱に吸い込まれるそれを見つめながらゆっくり蹲った。
ロイドさんに断って今日は早めに軍を抜け出して。
それから今度の文化祭のことで忙しいミレイ会長になんとかレシピを聞いて夕方からはりきってキッチンに立って。
もしかしたら食べてくれるかもしれない、なんて淡い期待を抱いて。
ああ、あたし、馬鹿だな、本当。

「ばかだなあ…」

呟いて、視界が滲んだのに気付いた。
スザクの対応には慣れたはずだった。
だけどあたしはスザクが好きで、彼と同じ屋根の下に居れることが本当に嬉しくて、彼のそっけない態度にも慣れてしまったと自嘲していたのに。
だけどさすがに、

「(ちょっと、これはキツイかも)」

疲れるだなんて、失礼な奴だ。


毛布を被って横になって、そしたら頬を伝うそれは一層強くなった。
あたしもやわな人間だと思う。
どんなに豪語していたってスザクの一言がこんなにひどく心臓を締め付けて、こんなに激しく涙腺を破るのだから。
明日の朝、目が腫れているだろうという心配はとうに消え、ただ馬鹿みたいにベッドの中で泣いた。
疲れるから、イコール邪魔、迷惑ということだろうか。
スザクにとってあたしはそんなに鬱陶しい存在なのだろうか。
それならそれでいい、彼に無理強いはしたくないから。
彼がそんなにあたしが嫌いであるならば、邪魔であるのだならばアッシュフォード学園の寮に今すぐにだって移動するのに。
だけどスザクは曖昧に言葉を濁してそれからあたしの心臓を抉る。
そんなとき、あたしは改めて彼の事を想っているのだと、実感させられるのだ。

足音を聞いてスザクが部屋を出たことに気付いた。
あたしと彼はあくまで同居人なだけであって、同じ部屋で、ましてや同じベッドで寝たりなんかはしない。
スザクの寝室の隣があたしの部屋だ。
だから遅くまで起きてたりする事も、真夜中恐らくミネラルウォーターを取りに行っていることもぜんぶ知ってる。
だけど特別干渉したりしない。
特に今日なんてこれからスザクに会うことも出来ないから、更に毛布を頭まで掛けた。
瞬間だった、あたしの部屋の扉が勢い良く開く。
驚いて肩を震わせたが暗闇の中だ、扉の置くに佇むスザクにはきっと分かるまい。
そしてゆっくり彼が此方に、つまりベッドサイドに近づいてくるのが分かった。
このときあたしは初めて扉側に背を向けて寝ていた自分に感謝するのだった。
ぴたり、スザクがベッドサイドで止まった。
でも生憎あたしは振り向けるはずもなく、背中に痛いほどの視線を感じながらも漏れそうになる嗚咽を堪えるのに必死だ。
寝ているのだと装わなければ、泣いていることを感づかせてはいけない。
唇を噛み締めた。

「凛、」

呼ばれて、右肩にぐい、と圧力を掛けられた。
そうすれば必然的に左側に向いて寝ていたあたしは仰向けになることになり、しかし顔を隠すのも見苦しいと思って宙を睨んだ。
決してスザクを見なかった。

「凛」

もう一度呼ばれる。
呼ばれる度にぼろぼろ涙が瞳から溢れる。
視界の端でスザクが僅か表情を歪めているのが分かった。

「さっきは、ごめん」

謝られた、正直これには驚く。
今日まで彼に謝られたことなんてあっただろうか。
やはり泣いている女を前にすれば男は謝る立場になるのだろうか。
それが彼の真意かも分からずに、更に溢れる涙を抑え切れなくて思わず手の甲で目を隠した。

「なに、あやま、てるの」

「…さっきは言い過ぎた」

「べ、つに…、気にしてない、し」

謝るのならもう少し別の対応をしてほしいものだと、思惟した。
けど此処ではいそうですか、と言ってしまえば何故か彼の思惑通りな気がしてならない。
だから嘘をついた。
勿論、スザクが易々騙されてくれるはずもないけれど。

「も、待たないから…、ご飯も、作らない、」

眠くて眠くてだけど彼の姿を寝る前に一目でも見たいと思って苦いコーヒーを流し込んだ。
スザクが口にしてくれるかもしれないと期待を抱いて毎日毎日食べてくれるはずもないご飯を作った。
だけどそれももうやめる、彼が迷惑だと感じるのならば、やめるよ。

「…ごめ、ん…、だから、帰って、きて」

ほんとうは。
本当は強がる余裕もなかった、彼があたしを迷惑だと感じて帰ってきてくれなくなってしまうのが一番怖かった。
振り絞った声は、泣いている所為か震えていたのが自分でも分かった。
ふいに、顔の上に置いた掌にスザクの指先が触れる。
触れて、それから包み込むように、最終的にはぎゅう、と強く握り締められた。
驚いて、スザクを見る。
その翡翠の瞳を見たのは久しぶりだった。

「…ごめん、凛、」

ゆっくりゆっくり、スザクの顔が迫ってきて、その唇が触れた。

「…な、に」

あまりの出来事に、目も見開き固まった。
スザクは触れるだけのそれをすると(口にするのも恥ずかしい…)上体を起こす。
下から見る翡翠には何処か威圧感も漂っているように思えて何も言えない。

「大丈夫、僕は帰ってくる、此処が僕の居場所だから」

大きな掌を額の上に乗せられて、そのまま撫でられる。
暖かい彼の手に大人しかった睡魔が勢い良く襲い掛かってきた。
勿論、さすがにこの時間にもなれば睡魔に勝てるはずもなく。
あたしは涙で濡れてやや沁みる瞳をゆっくり閉じた。
頬に乾ききってない涙が少し気持ち悪かったけど、その掌と彼がいるという安心感ですぐにあたしは夢の世界へと飛び立った。

朝、やっぱり彼はもういなかった。
空っぽの部屋、静か過ぎるリビング。
昨日のあれはやはり夢だったのだろうか、と思惟する。
だけどその日、自分ひとり分だけの晩御飯を作っているあたしの元に彼が帰ってきたことでそれはやっぱり現実だったんだと、あたしに無意味な幸せを齎してくれた。
そうしてソファーに座り込んだ彼から漏れた一言。

「僕の分も作って」

そっけない声音で。
ぽつり、聞こえないほどの音量で。
ああ、この間ルルーシュにポトフの作り方を聞いておいてよかったと、あたしは頬を緩ませるのだ。

おかえり、

(初めて聞いた"ただいま"が、幸せでした)