西ドイツ残存戦力の殲滅はスザクが予想していた以上に、早々に終了した。三日滞在すると思われて用意された荷物も結局二日分しか消費せずに、こうしてエリア11に戻ってきたのである。ナイトメア収容庫にはスザクが最後に目にした少女の姿は勿論見えない。夜中の11時を回ったところ、政庁内は既に静寂が漂う。アーニャとジノから先ほど簡潔にお疲れ、といったメールを受け取ってから早30分と少し。仕事も上がっているだろうには、既に携帯端末などという連絡手段はなく、スザクはそのまま自室へ向かった。
翌朝になってもスザクがの姿を目にすることはなかった。無論、一等兵とナイトオブラウンズが早々に出会うことはないが、こうして珍しくスザクが政庁内を歩き回っていても彼女の姿を見ないのだ。スザク以上に政庁内を走り回るは雑務を押し付けられ、居場所を転々としている。資料室に居たかと思えば普段の仕事場に。掃除なんかも彼女の役目であった。だけど今朝はそのどこに行っても彼女の姿はない。スザクは仕事に思うように打ち込めなくて、更にそのこと自体にイラついていた。行く前こそ言葉を交わしたくせに、こうして帰ってきてみれば何もない。それが少し、腹正しかったのだ。
正午になってスザクはの自室に向かった。場所は彼女と同じ職場の女性に訪ねた。薄い茶色の色をした、長い髪の女性だった。顔立ちは、恐らく綺麗な方に分類されるであろう。スザクが声をかけるとなると、傍にいた二人の女性も寄り添うように彼女の横にちゃっかり居座った。黒髪のショートの女性と、明るい茶髪の女性。
スザクは無論、直感した。恐らく彼女達がいつかに手を上げた者たちだろう。勿論ここでとやかく言う必要もなく、スザクは愛想のよい笑みを浮かべてそこを去った。
自分が一等兵の頃住居としていた寮より更に古びた建物にの部屋はあった。正午ともなればほとんどの寮にいる人間は政庁へ出向いていてその寮に人気はない。言われた番号の部屋の前で立ち止まる。確かと相部屋だった女性軍人はいつの日かここを出て行ったらしいから彼女はここに一人で住んでいるのだ。今時は珍しいドアノブを回す。無用心にもロックがされていないドアは錆びれた音を響かせて開いた。中は暗くて少し埃っぽい。玄関とは呼べないようなそこでスザクは日本人の特性か、思わずブーツを脱いで中に入っていた。玄関を抜け、あったのは真四角の個室。そこはとにかく暗かった。カーテンなんてものはないが、窓から差し込む光はほんの僅か。天井も床もコンクリート張りのそこは寒々しい。右を見れば備え付けのトイレと浴室が見えた。ふいに足元に当たったのは乱雑に散らかった包帯やら医療用ガーゼやらだった。ひんやりしたコンクリートの床には消毒液も転がっていて、そのときスザクは初めて奥にベッドが置かれていることに気づく。
白いシーツが小さな小さな山を作っている。不規則に上下するシーツの山からは時折苦しそうな吐息が聞こえてスザクは思わずそれに近づいた。
「…、」
シーツの中には目当ての少女がいた。しかし、三日前スザクが見たのとはかけ離れた姿で。
「はぅ、…は、」
まず、少女の顔は左半分が見えなかった。医療用ガーゼが乱雑に貼り付けられていたからである。右目のしたの痣だってまだ完治していないのに、多分ガーゼの下にはまた新しい痣ができているのだろう。そして本来白いシーツに散らばるはずの栗色の髪の毛はばっさりと耳の下でなくなっている。目を丸くした。
「…、」
スザクが声をかけても一向に目を覚まさないに、嫌な予感がする。息をしているから生きているんだろうが、顔が非常に赤い。短い吐息も小さいもので、その頬に触れた。あまりにも熱くて驚いた。
「ん…、」
そのときやっとが目を覚ました。生理的な涙が浮かんだその瞳でスザクを捕らえるとそ、と瞳を細める。その瞬間が、スザクの脳裏に焼きついた。
いつか、死に際で笑って見せた少女と、重なったからである。
弱りきったはスザクを確認すると慌てて身体を起こそうとするが、うまくいかない。力が入らないのだ。くたりとベッドに引き戻されてしまうを制止して、その横の質素な椅子に座った。古いようで、こちらも錆びれた音がする。
「…く、るるぎ卿…、」
ひゅうひゅうと聞こえる吐息の合間に、がスザクを呼んだ。久しぶりに聞く彼女の声音があまりにも弱弱しくてスザクは珍しく動揺した。と、同時に募る憤り。やはり、自分が離れた途端は上官達に甚振られたのだろう。シーツをそっと捲れば白い腕と足にはいたるところにガーゼが包帯が巻かれていた。乱雑に巻かれたそれは、きっと解放されてやっと自室に戻ってきたがどうにか一人で介抱したものだろう。たった一人で、誰もに会いにきてはくれない。
「もうしわけ、ございません…、せっかくご無事で、戻られたのに…、」
聞きたいことはたくさんあった。だけど今のに其れを問うことは許されないような気がした。
「…熱、出たの」
「…」
は必死に肯定しようと思っても声が思うように出ない。そうしてとろり、と黒い瞳が溶けるように細められて瞼はゆっくり閉じられた。ひゅうひゅう、といった吐息しか聞こえない。スザクがもう一度声をかけてもが返答することはなかった。
「…」
スザクがもう一度、名前を呼べばがゆっくりゆっくり瞳を開く。唇が動いていた。聞こえなくて、耳元を寄せた。
「くるるぎきょう、…どうか、お手を、貸していただけ、ますか」
呂律の回らない舌でそう告げた。黒い皮手袋に覆われた手を静かに彼女に差し出す。シーツの脇からゆるりと映えた細くて白い、そして包帯が巻かれている手が弱々しくスザクの手に触れた。音もしないほど、弱い力での指はその手に縋るように巻きつく。
「はぁ、は、…、ふ、ぅえ、…ふええ…っ」
初めては、声を出して泣いた。
聞かなくても分かる。怖かったのだ。恐ろしかったのだ。嬲られて殴られて、一人その傷を介抱して、泣いても誰も助けてくれない。一人で苦しさに紛れて過ごす夜には、死んでしまうではないかと、思ってしまうほどであろう。こうしてスザクがここを訪ねてこなければ看病なんてしてくれる人もいないはひっそりと、消えていてしまったかもしれない。は泣いていた。
「ん、ふえ、ぅぇえ…」
泣きじゃくるに、スザクはそっとその手を握り返した。