目覚めが良かったと、スザクは思う。風は少し肌寒いものの、昨日のの笑みが離れなくて、心は満たされたまま。スザクは無意識に微笑んだ。第三者の目から見て自分は果たしてどれほど気色悪いのか、なんて自嘲して仕上げ終わった書類を束ねる。一枚二枚、そして三枚。書類は面白いほど早急に仕上がっていった。

はどうやら本当に前線に赴いたらしく、彼女が走り回っているはずの廊下は何故だか今日は少し寂しく感じる。太陽が真上に昇った頃だろうか、スザクは動かしっぱなしの手を漸く止めて顔を上げた。背中を丸めていた所為で骨がぽきりぽきり音を鳴らす。一度立ち上がって出来上がった書類を手にする。これを持っていくついでに休憩がてら昼食でも取ろう、スザクはそう思案して部屋を出た。

だがそんなスザクの思惑はあっけなく第三者によって崩される。書類を提出したまではいいのだが、その帰り、スザクの目の前を歩いてきたのは同僚のジノと、アーニャ。ジノは手に何かを持っていて、スザクを見つけるといつものように嬉しそうに表情を明るくして駆け寄ってきた。

「スーザク!仕事終わったのか?」

「うーん、まだもう少しあるよ」

「なあなあ、これ、しようぜ」

仕事がまだある、と告げたにもかかわらずジノが嬉しそうに出したのは手中にあった折りたたみ式のチェス盤だった。アーニャがひょっこりジノの後ろから顔を覗かせて端末越しにスザクを見上げる。

「チェス?」

「ルルーシュ先輩が言ってたんだ、賭けチェスだっけ?面白いんだろ?」

「それは…その面白いはジノが思ってるのとは少し違うと思うけど」

「とにかく一回やろーぜ!チェスなんて随分やってないんだ、久しぶりに、さ」

またいらぬことをジノに吹き込んだアッシュフォード学園の副会長のすまし顔を思い出してスザクは肩を竦める。ジノはやろう、の一点張りで勿論その先の廊下に通す気はないらしい。これからの残っている仕事はそう多くは無い、スザクは暫し考えるように唇を尖らせてから頷いた。

「うん、まあ、一回だけなら」

「よし!ありがとスザクー、アーニャ強くってさ」

どうやら既にアーニャとは対局済みらしい。適当にチェス盤が広げられるようなスペースに移動してスザクは、そのソファーに座った。

「…スザク、」

「え?」

「今日、機嫌良い」

アーニャが呟いた言葉にどきり、と肩を揺らしたスザクは平静を装うように広げられたチェス盤の上から駒を一つ救い上げる。アーニャの言葉にそういえば、と白の駒を集めるジノがスザクを見た。

「ああ、確かに」

「…そう、でもないよ」

「いーや、絶対機嫌良い!何?何かいいことでもあった?」

ぐ、と顔を覗き込んでくるジノを軽く睨んでから、しかしスザクは長々と弁明するわけでもなくそのまま黒の駒を集める。彼らにのことを話すつもりはないが、隠すつもりもない。適当にあしらってから、並べ終わった駒を見下ろした。駒は、所詮道具に過ぎない。は、一等兵の彼女は道具にすら、きっとなれない。歩兵は今更戦力にはならないのである。スザクは眉を潜めた。

「…今更さ、歩兵って何なんだろうね」

「え?」

「今やナイトメアだって空中戦が主だろう?こんな時代に歩兵って、戦力になるのかな」

ルークを手にしたスザクが瞳を細めて告げた。そんな少年を見たジノは表情も変えずに盤上の駒を見下ろす。

「ま、これといった戦力にはならないだろ」

「でも必ず、まあ陸上戦に限るけど歩兵っているだろう」

「それはあれだよ、銃弾と同じなんだ」

そこでスザクは顔を上げた。スザクにはいまいちジノの言葉の意味が理解できない。だから蒼い瞳の奥の真意を伝わりはしない。ジノは一度背もたれに背を預けて駒をくるくると指先で回しながら告げる。

「意味は無いと分かっていても銃弾を消費しなきゃ食っていけない奴が軍にはいるってこと」

「…戦争がビジネスの人のこと」

「つまり歩兵も同じ、歩兵は陸上から空中に漂うナイトメアに対する銃弾と同じなんだ、彼らは消費物、戦争がビジネスで生きている奴らにとっては人間も銃弾も、大差はないってこと」

スザクは目を細めた。一年前、つまり自分は戦場のビジネスの、それの単なる消費物に過ぎなかったのだ。そしてそれはも同じ。いつ命を落としてもおかしくない戦場は、ただの盤上に過ぎない。

「どうしたんだ、スザク、いきなり」

「いや、別に」

「もしかしてあの子のことか?」

ジノとアーニャが目を合わせる。
「茶色い髪の、子」

「いつだっけか、スザクが抱えてた子だよ」

ジノもどうやら覚えていたらしい。スザクは口の中で舌を打ってからす、と何事も無いかのごとくルークを盤上に戻した。しかしジノの思考はすっかりアーニャのいう茶色い髪の子、つまりに向かっていた。アーニャもどうやら興味が無いわけではないようで、端末に視線を走らせて入るが、時折スザクを覗き見る。

「スザクとあの子ってさ、どういう関係?あの子可愛い顔してたよな」

「…別に?」

「よく政庁の中走ってるの、見る」

「ああ、私もあるぞ」

そこでジノが思い出したように手を叩いて持っていた白のルークを盤上に戻した。ジノの表情は何か気づいたような、核心めいたものを秘めている。

「そうそう、あの時から思ってたんだけど、」






の住まう寮は相変わらず寂れていて、寒々しい。あんなに慌てて出てきたから恐らくジノもアーニャも驚いたに違いない、スザクはそう思案するも先に焦燥に駆られていた。心臓が五月蝿いのに、いつまで経っても落ち着いてはくれない。の部屋の鍵はすぐに手に入った。寮長はスザクの姿を見ると驚いたように身を縮こまらせて、用件をすぐに飲み込んだ。は、は、と肩で息をしながら早急に中に入って部屋の中を見回す。あの時と同じ、冷たい、寒い部屋。取り付けられているチェストは三段になっているもの一つだけで、スザクは考えるよりも先にそれを開いた。下から一段、二段、必要最低限のものしか入っていないチェストにやはり何も見つからないか、と唇を噛んだ刹那、三段目のそれから思っても見ないものを発見した。

「…、」

ブリタニア軍に所属する、名誉ブリタニア人としての証明書。確か1年毎だったか、更新されるそれは全部で5枚、入っていた。証明書を手にして一枚一枚見ていく。柊、女、そして生年月日から始まり戸籍情報の書かれたそれの右上に写真が添付されていた。こちらを見つめる少女、瞳は黒い。一枚一枚確かめながら、捲っていく。1年前、2年前、3年前、4年前。そしてが軍に入隊してきたその年の証明書を捲った。

「…柊、12歳、…、女、一等兵、」

読み上げていく。写真を見るのが怖かったから。右上の写真を、意を決して、見た。

そして息を呑んだ。


「…―嘘だ」


呟いた言葉はすぐ横を走る電車の騒音にかき消された。スザクは息をするのを忘れた。手の中から落ちた証明書を拾うことも出来ず、それを退かしたチェストの奥の数枚の紙切れに気づく。小さく折りたたまれたそれは、黄ばみ、酷い皺が寄っていて今にも破けそうなものだ。震える指先でそれを慎重に広げていく。はらり、とその間から落ちたのは、一枚の写真。ゆっくりと床に吸い込まれていくのをスザクはただ見つめていた。写真は表向きのまま、床に吸い込まれた。古い写真は、その紙切れと同じように古びていて、そして異様だった。それを拾い上げることもままならず、手中の紙切れに視線をやった。

「…、」

ひゅ、と息を吸って、スザクは心の片隅の、きっとどこかにいると信じていた神を、呪った。