所詮あなたはそれだけよ

うー、といつまでも低く唸っているのは此処、特別派遣嚮導技術部、通称特派主任であるロイド・アスプルンドである。机に顎を乗せていつまでも唸っている彼であるが、そんなの微塵も可愛らしくないのが本音で、スザクは面倒くさそうに眉を寄せるだけで何も言わない。セシル・クルーミーも同様だ。ちなみにロイドの眼鏡越しの視線の先に見えるのは、膨大な書類の山、山、山。確かにこれだけの量であれば、唸りたくなるのも、分からなくはない。

「…スザクくーん」

そこで終始唸っていただけのロイドについに名前を呼ばれてしまったスザクは、出掛けたため息を飲み込んで彼に振り向く。ちなみに本日の自分の特派での仕事は終了している。スザクは帰りたかった。

「なんですか?」

「…殿下さー、なんかあったあ?」

じ、と眼鏡の奥の水色の瞳が自分を見つめるが、スザクはすぐに脳裏に自分の主の顔を思い浮かべる。何かあった、というのは果たしてどこからが報告すべき点なのか、スザクは一度唸ってから首をひねる。

「此処最近でこれといった、ということは無いと思うんですけど」

「…ホント?」

「多分」

疑わしげに自分を見る眼鏡にスザクはむ、と眉を寄せる。ロイドとはただの皇女と技術者ではない。幼い頃からロイドのその病的なまでのナイトメア愛には興味を持っていて、スザクが搭乗するランスロットにもは熱心に興味を持っているのだ。そんなロイドとはランスロットの見学がてら、世間話をするような仲であるのだ。つまり簡単に言えば友人、のようなものか。勿論ロイドの飄々とした喋り方はの前になっても変わらないが、しかし彼女自身さしてそれを気にしている様子も無いので、それは継続中だ。

「じゃあさ、君から言っといてくれない?」

「何をですか?」

「こーれ」

ぴらり、ロイドが書類の山から一枚のそれをスザクに見せる。どれどれ、と書類を覗き込んでも内容はスザクが関係しているようなものでもなければ、些細な報告書である。どこに報告するような点があるのか、と一度首を傾げるも、書類上にはこれ以上ないほどの修正が入っていた。(しかも雑に)

殿下さ、最近仕事に精が入ってないっていうか、なんかどーっか上の空っていうか…書類の間違いも前とは比べられないぐらい多くなるし、…しかもそのほとんどが特派関係の書類…修正するの僕達の仕事なんだよねえ」

「そのほとんどは私がやってますけどね?ロイドさん」

「…は、はい」

にっこりと隣でセシルに微笑まれ、冷や汗を流すように居心地悪く視線を泳がせたロイドに、スザクは確かに、と唇を尖らせる。確かにここ最近のは逃げ出すようなことはなくなったが、とにかく仕事上でのミスが目立つ。ルルーシュに言われ、コーネリアに言われ、頬を膨らませていただがそのミスが目立つのだ。私情には口を挟まないコーネリアでさえ、心配そうにを見にやってきたぐらいなのだから、相当なのだろう。だが彼女にそんな状態になるまでのきっかけが、あるようにはどうもスザクには思えなかった。ここ最近は結構平凡にのんびり過ごしているし、大きな問題も起こってはいない。

「…それにい、最近の殿下はなんか余所余所しい」

「は?」

「前の殿下ならもっとここはこう!とか、そこは違う!とかもっとずばずばものすごい勢いの判断力だったのに、それに口調…なんていうか、余所余所しいプラス、しおらしいっていうか」

「…はあ」

ロイドの言いたいことは分かる。書類上のミスはスザクには発見できないが、の態度が少し変わってきているのは事実だ。前ならもっと女性とは思えないような口調でずばずばスザクに命令していたのに、最近じゃあ悪いんだが、とか珍しいときはごめん、などと言いながらの命令である。調子が狂っちゃうよおーと呟くロイドの気持ちは確かにスザクにも分かった。これでは調子が狂う。そして失礼ではあるが、しおらしいだなんてには到底似合わないような言葉だったのに。

「これはぜーったいなんかあったねえ」

「…」

「スザク君なんか言ったー?」

「え、自分は特に」

というよりあのお姫様が自分のようなものの言葉に一々反応してくれるか、といえば答えは否だ。スザクが何を言ったところでそれはの視野に入るかすら分からないのだ。ロイドはじとー、とスザクを見やっていきなり怪しく笑んだ。それが居心地悪くてスザクは奥歯を噛む。

「ま、とにかくよろしくねえ、スザク君」


ロイドの言うよろしくねえ、というのはつまり、に何があったのかを突き止め、挙句には彼女の言動をいつもどおりにしてほしい、ということだった。いつもの言動も、勿論スザクが好き、というわけではないのだが、いかんせん、今の言動がどうもに似合わない。そしてこちらの調子が狂う。
ロイドに言われ、スザクは突如昨日のやり取りを思い出した。昨日、自分のミスに、一度眉を吊り上げたは、すぐに慌ててそれを隠し顔を背けると、何かをぶつぶつと言って下手くそな笑みを小さく浮かべた。驚いて肩を揺らすスザクに気づいていないのか、は恐らくスザクが初めて聞いただろう、だ、大丈夫よ、なんてそれこそいかにも女性らしい口調で肩を竦めて見せた。正直あれには驚いた。同時に悪寒もした。勿論自分がマゾヒストというわけではないのだが、あの場面であったら素直に怒られていたほうが何倍もマシだ。そのほうがらしいし、スザクはどちらかというと、そんな彼女の方が

「…ん?」

まるで自分が彼女を想っている様な思考にスザクはぶるりと身震いをした。ありえない、大体あのお姫様は自分を一目見た瞬間からふん、と鼻で笑い、顎で自分を使うような人間だ。嫌いになることがあったとして、好きになることは多分ありえない。確かに彼女は脱走なんてしなければ、仕事は人並みに頑張るし、回りの人間のこともちゃんと考えている人間だ。だがスザクにはそれプラス、から嫌味だの無理な命令などを聞かされているわけで、好き、という恋愛感情を持つのは難しいのである。

「…、」

スザクは眉を寄せてから傍にあった椅子を乱暴に蹴った。


「殿下、」

二度のノックのあと、いつもなら入れ、と聞こえるはずのところがどうぞ、なんて慣れないような言葉が聞こえたのでこれは本当に何かあったな、とスザクは思った。執務室はいつもどおり。のデスクの上は書類でいっぱいだし、飲みかけの紅茶もいつもどおり。しかしスザクが入室した途端のの反応は、いつもどおりではなかった。
慌てて姿勢を整えて、恐らくくるくると指先で回していたペンをしっかり握る。は一度もスザクを見ようとはしないで、必死に顔を隠しているようにも、スザクには見えた。

「あの殿下」

「な、なに」

やはり、口調が彼女らしくない。一体何があったのだ、と思考をめぐらせた瞬間、ロイドの言葉が蘇る。
スザク君、なんか言ったー?
彼女のこの反応と、恐らく一番最近、というより本当はルルーシュに言ったはずの言葉をスザクは思い出した。あれはルルーシュにどんな人間の騎士になりたいか、なんて希望を聞かれた瞬間の言葉、温厚で優しい人がいい。勿論がその言葉をどう受け取ったかはスザクが知るはずはないが、あの後怒ったように立ち去ってしまったを思い出して、まさか、とスザクは冷や汗を垂らす。あの言葉をが真に受けているんではないか、というのは一番選択肢としては可能性が低いものだったが、ここ最近のことを考えると、原因はそれしか思い浮かばない。少なくともスザクにはそれしかなかった。

「ロイドさんが、言っていたんですが」

「…?」

顔を上げる。の真ん丸い瞳を見るのは、何故だか久しぶりだと思った。

「最近殿下の様子がおかしい、と…何でもしおらしくなられた、とか…」

甲斐甲斐しく言って見せてから、スザクは内心自嘲した。さて、問題はこれからのの反応である。しかしスザクのその言葉に、一度目を丸くしたはぷしゅう、と音がするほど顔を紅くして俯いてしまった。え?思わずスザクは出掛けた疑問符を飲み込む。なんだ、この反応。可能性が低かった選択肢がむくむくと膨れ上がる。

「…そ、それで」

「え、あ、はい、…それで書類のミスも増えた、とのことなんですが」

「…、あ、わる…、いや、ごめん、なさ、い」

まさかこのからごめんなさい、が聞けるとは、彼女の側近護衛になってから思いもしなかった枢木スザク。手に汗を握った。

「どうかされたんですか?」

問えばは何も言わない。顔も俯いている所為で表情は読み取れなかった。
スザクは内心焦っていた。こんな反応が返ってくるとは思っていなかったのである。そして今此処で、自分の発言の所為かと聞くべきか、迷っていた。大体一軍人が皇族相手に、自分の所為で、だなんておこがましいにもほどがある。スザクは暫く迷った後、口を開いた。

「あの、…図々しいことを承知で申し上げますが」

スザクは意を決した。これが自分の発言の所為でなかったら無礼、としての少々の罰は受けるが、それ以上にスザク本人として安心できる。聞くしかなかった。

「もし、殿下の様子がお変わりしたのが自分の所為でしたら」

「…え?」

「…この間の、ルルーシュ殿下のご質問の際の自分の返答が…、騎士としての希望が、っていうのですが。もし、万が一、自分の返答で殿下が何かお考えになったことがあるのでしたら…」

そこまで言ってスザクはぎゅ、と拳を握る。これが違ったとしたら、このしおらしいバージョンのですら、さすがに眉を吊り上げるだろう。馬鹿を言うな、とか、ふざけるな、とか。絶対に飛んできそうな罵声に、構えるスザクだがは何も言わない。ぎょっとして彼女を見た。
はまだ、俯いたままである。スザクはまさか、本当に自分のあの発言の所為なのか、と慌てた。

「もし、」

「え、」

「もし、そうだと、したら」

がぽつり、と漏らした言葉にスザクは眩暈を覚えた。

「お前は、…枢木、どう思う」

のペンを握る白い指に、力が篭ったのがスザクから見ても分かった。スザクは目を丸くした。まさか本当に自分のあの温厚で優しい人がいい、なんて言葉をが真に受けたのか。スザクは同時に驚愕していた。はスザクの騎士になる上での希望を聞いて、自分を少しでもそんな雰囲気の人間に近づけようとしていたことになる。それはスザクを騎士にしたい、ということでの行動なのか。つまり、はスザクを

「自分は、」

スザクは必死に言葉を探していた。これは、なんと答えるべきなのだろう。スザクには分からなかった。

「…あのときの返答は、その場しのぎのようなもので、…まさか殿下が本気になさるとは、思いもしなくて」

これは、間違いなく彼女を傷つけると、スザクは言い終わってから気づいた。
そうだ、仮にもし本当にがスザクを騎士にしたくて、彼の希望を聞いてそんな人物像を目指しているのだとしたら、今の言葉はあまりにも残酷だ。しかしスザクにはどうもがそんな風に考えているとは思えなかった。はいつも自分を顎で使うような人で、弱音も絶対はかないような人で、いつも気高くまさか今みたいに他人の言葉に流されるような人ではないと思っているからである。けれどは何も言わない。ここはもう、(一応)上司が困っているわけだし、これからの打開策を提示するしかないと思った。スザクは口を開く。

「ですから、もしそれでミスが多いのであればロイドさんが困っていたので、…その、」

「自惚れるなっ」

フォローになりきらないそれを口走っている最中、突然が叫んだ。驚いて彼女を見ると、はすぐに椅子を180度回転させてスザクに背を向けた。

「自惚れるなよ、枢木、わたしがお前のあの言葉に翻弄されてるとでも思っているのか?」

「…あ、の」

「ふざけるのも大概にしろ、大体なんだそれは、わたしは態度を変えてもいないし、ミスもしていない!」

これは、嘘だと思った。現に被害報告が出ているのだ。スザクは何も言わないで、ただ申し訳ございません、と言った。謝るに越したことはない。が一度息を呑んでから、固まった息を吐き出した。

「図々しいにもほどがある、もういい、下がれ」

の有無を言わせないような声音に、しかし今日の仕事はまだあるスザクはですが、と言葉を濁らせる。は恐らく眉を吊り上げただろう。

「下がれと言っている!」

びん、と響いた声音にスザクは暫しの間のあと、イエスユアハイネス、と告げた。それから扉の前で一礼して退室する。大きな厚い扉を閉めて、スザクは大きなため息をついた。
あの反応だと、は本当に自分の言葉を真に受け、そんな人物になろうとしているだなんて、誰が分かるだろうか。ましてやスザクの言葉に、である。明日はなんて言って謝れば入室を許可してもらえるだろうか、スザクは面倒くさそうに肩を竦めて歩き出した。


ぽつ、ぽつ。
上物のズボンに、ひとつ、またひとつ、としみが滲んでいく。

「…大丈夫、大丈夫だ」

少女しかいないこの部屋で、言い聞かせるように弱々しい声が響く。

「大丈夫、…泣くな、」

ぽつ。少女の白い頬に、3度目の水滴が伝った。