この世で一番難しいことがなにか、わたしは知っていた。そしてそれを自分が成せないということも知っていた。いや、簡単、と言う人もいるかも知れない。けれどわたしには、それが果てしなく難しく、そして不可能に近かった。
視界の端で、口元を上品そうに隠しながら、何か忌々しそうな瞳を向けている貴族にが気づかなはずがなかった。貴族の女性二人は、の視線に気づくとすぐさま目を逸らして談笑を始める。は何も言わなかった。こういったことにはすでに慣れてしまっているのもあった。自分は、どうしても人に好かれる、ということが出来なかった。
母は庶民出身ではないものの、貴族としての身分は底辺に属するような家の人間だった。しかも長女でなければ、三女である彼女は器量が良く、そして頭脳明晰だった。身分が低く、容姿端麗な彼女を良い目で見る貴族など、無論いるはずもなかった。ブリタニア皇妃の座に就いたのも身体を売ったとか、卑劣な言葉だけが、彼女の背中にのし掛かっていたのである。そんな彼女の子供であるもまた、貴族に忌み嫌われていた。母親が好かれない時点で、その子どもがよい待遇を受けられるはずがないのだ。勿論、皇族、とだけあって目立ってのことを批難するものはいなかったが、子供のでさえ、貴族の人間達が自分を白い目で見ていることぐらいすぐに気づいた。
母親は若くして亡くなった。元々病弱だった彼女は離宮でひっそりと息を引き取ったのだ。がまだ、6歳の時である。の母親は皇族の中でも浮いた存在だった。生粋の皇族の人間たちはあまり姿を見せない彼女を良く思ってはいなかった。ただ一人、庶民上がりのマリアンヌだけは、彼女のことをいつも気遣っていた。病気で寝込んだ彼女を毎日、その離宮までやってきて様子を伺ってくれたのは、マリアンヌだけだった。マリアンヌの子供であるルルーシュはと同い年、その妹のナナリーもと仲良くしてくれていた。は二人が大好きだった。の母親が亡くなった時、たった一人のの側にいてくれたのはマリアンヌと彼女の二人の子どもたちだったのだ。
は10歳を過ぎると、ひとつの真実に辿り着いた。それはこの世で一番難しいことで、そして一番簡単であるはずのことだ。
「失礼します」
枢木スザクはその動揺が相手に伝わらぬよう、平静を装ってその扉をノックした。動揺、というのも何もスザクびくびくしているわけではない。この扉の向こうにいる少女が、怒っているか、果たして落ち込んでいるか、それによってあの面倒ごとが終わったのか否かが判断されるわけだ。スザクとしては勿論、いつもどおりのの反応を期待した。というより願っていた。
扉の奥から聞こえたのは、聞き慣れない言葉ではなくいつも通りの入れ、の言葉だった。内心、ものすごく安心していた自分がいた。スザクはそっと扉を開いた。奥には自身のデスクでいつも通りに書類を整理する皇女の姿。スザクが入室したことなんてまるで興味がないように、時折その白い指でペンをくるくると回しながら、は仕事に勤しんでいた。
「始末書が出来上がりましたので、お持ちしました」
「ああ、そこに置いておけ」
は一瞥もくれないで、顎で書類の山を差した。昨日のことがあった手前、若干気まずいかもしれない、だなんていう枢木准尉の思考を見事拭い去ってくれたの短い返答。そっと彼女を盗み見すれば、何ら変わりのない表情で、白い頬に睫毛の影が落ちているだけである。スザクはほっとした。
用事はそれだけだった。の執務室から退室したスザクは扉を背に盛大なため息をついた。とりあえず、昨日の様子が今日に続いてなくてよかったということ。まあがいつまでも過去のことを引きずるような人間だとは思っていないが。もう一つは彼女が昨日のことに何も触れてこないこと。これはスザクも触れないでおくつもりだったので、安心した。昨日までのの奇妙な態度、余所余所しかったり、普段使わないような言葉を使ったりしたあれ。そしてそれが自分の発言が原因だったということが、スザクには今でも信じられなかった。自分の発言が原因、というのはイコールそれは必然的にがスザクに、まさかスザクが予測しえない感情を抱いているということになる。あり得ない、スザクは歩き出した。
数十分後、政庁にいる人間のほとんどはが執務室にいるであろうと思っている頃、は帝国美術館にいた。無論脱走、もといサボりである。この間のいいサボり場所、図書館は既に見つかってしまったから今回は美術館にやってきたのだ。はこう見えて絵画が好きだ。読書をしたり、絵画の世界に浸ることが結構好きだったする。それは幼い頃一人で過ごす時間が多かったからでもあるだろう。先ほどとは違い、ラフな私服に変装したは先日視察に来たときに見つけた裏口からこっそり美術館に侵入した。
何故美術館にこっそり侵入したかというのも、が正面から美術館に入ろうとしたところ、何故か軍人が何十人も立っていて厳重な警備が行われていたのだ。まさか自分がこうしてやってくることをスザクか、またはダールトンあたりにもうばれてしまったのか、とも考えたがそれはすぐに消える。確か一昨日くらいだろうか、はユーフェミアから今日、本国にいるクロヴィスの手がけた絵画がこの帝国美術館に送られるということを聞いたのだ。そしてそれの記念式典に自分が出席するということも。つまり本日この帝国美術館にはブリタニア皇女、ユーフェミア・リ・ブリタニアがやってくるのだ。あの厳重な警備にも頷ける。しかしそんな警備の中にみすみす入っていくなど、サボっていたのを報告してもらうようなものだ。だからこうしてはまだ警備兵が到着していない、裏口から入ったというわけである。
美術館の中は外ほど騒がしくはなく、静かに、着々と記念式典の準備がされている。準備といっても、クロヴィスの絵が飾られる一階の大広間のところだけで、そのほかのブースには警備兵はおろか、人気すら疎らだ。はそれをいいことにさっさと二階に上がると、早速絵画を見て回った。
「…、」
この美術館はイレブンの手がけた絵画も飾ってある。ブリタニアの絵画にはない、繊細さや、素朴さがある、とは思う。こういった分野の専門知識はないがなんとなくはそう思った。
時折すれ違う人間も数人、一階の大広間にはたくさんの記者や軍人がいるものの、二階はこんなに静かである。のブーツが奏でる音さえ五月蝿く感じてしまうほどだ。は一度足を止めた。彼女が見上げるのは、無名のイレブンの画家が描いた一枚の絵画だった。
民家、だろうか。この回りにはこういった家はないが、恐らくニホンの古い家だろう。見たことのない、家の絵。バックは青、晴天である。中心より少し外れて遠慮がちに描かれたその民家の屋根はまるで藁のような素材で、しかも一階建ての小さな民家だ。けれどその民家の周りの情景はあまりに繊細で、儚く、そして美しかった。イレブンが描いたからあまり評価されずにこうして端に飾られているが、この絵は何か人を惹き付けるような気がした。実際、がいつまでも足を止めているのはそのせいだ。は暫く一歩も動かずに食い入るようにそれを見つめていた。
「…綺麗」
は一度瞬きをした。
「殿下」
響いたのは、聞きなれた声だった。さすがに驚いては声のするほうへ勢いよく顔を向ける。枢木スザクがまたこの間のようにカーキ色の軍服を着てそこに立っていた。
「…」
「ユーフェミア殿下に言われて来たんです、殿下が今度来るとしたら美術館ではないか、と」
「…」
はすぐにまた絵画に視線を投げた。自分が脱け出した後、スザクは執務室にやってきたのだろう。口の中で舌打ちをする。またこんなにもあっさり見つかってしまった、という悔しさと、出来れば今は会いたくなかったのに、という苛立ちだ。は何も言わずに足を進める。当然のようにスザクはその後をゆっくりと付いて来た。
「ユーフェミア殿下はもうこちらにお見えになっていますが」
「…」
「下に行きますか?」
何も言わないで、首を横に振った。は皇女として人前に出ることが嫌いだった。ユーフェミアのようにメディアの前に頻繁に姿を現さないはカメラや、あの質問が好きではないのだ。だからエリア11に来たときも極力メディアには出なかったし、新聞にもあまり記載されなかった。がエリア11にいることを知らない本国の人間もいるだろう。の何も言わない横顔に、スザクも何も言わなかった。
一階のざわめきが、二階が静かな分すぐに伝わってきた。とスザクしかいない回路、二人はお互いに会話をしていないのに二人の間には一階の声が流れていた。は暫く絵画を見て回ったあと、唐突に帰る、と告げた。
「下は五月蝿いから裏口から出る」
「正面に車が準備してありますが」
「いい、歩いて帰る」
歩いてきたように、歩いて帰る、はそう言った。スザクは表情には何も出さないで、ただイエスユアハイネス、と告げる。は一度だけ、悲しそうに視線を下げた。
来た道を戻る最中、豪勢な階段を上ってくる一人の男性がの視界に入った。けれど視線はやらずに、それを通り過ぎ、奥の裏口へと歩く。だから気づかなかったのである。その男の表情が、緊張に固まっていたこと、そしてその手に拳銃が握られていたことに。
「殿下っ!!」
聞いたことのないようなスザクの声、驚いて振り返る頃にはの眼前に少年の背中があった。眼を見開く。ばん、と耳を劈くようなその音が響いて目の前の背中がびくり、と揺れた。スローモーションのように、その背中がゆっくりの方へ、倒れこんでくる。はただ、眼を見開くことしか出来なかった。
「…え」
倒れこんできた背中をうまく支えることが出来ずに、そのままは床に尻餅をついた。一緒に床に崩れた少年の頭がの肩のところにあって、しかしぴくりとも動かない。スザクの肩に触れる。枢木、名前を呼んでも少年は動こうともしない。はスザクの背中の下に巻き込まれた自身の腕を取り出した。
「…、な、に」
どろり。紅いそれがべったりと付着している、自分の手。スザクは動かない。顔を上げれば真っ青になった男がこちらに拳銃を向けたまま、がたがたと震えていた。視線を落とす。スザクの胸から真紅のそれが、噴き出していた。血、である。
「くる、る、ぎ」
は言葉を失った。