銃声が鳴り響いたのは、一階ではなく二階からであった。ユーフェミアはゆっくりゆっくり歩いて絵画を見回っていたところを、その騒動でいち早く車に戻され、現在もこうして騒がしい館内を窓越しに静かな車内で不安そうにダールトンが戻るのを待っていた。
スザクには、なら自分が今から行く美術館にいる気がする、と言ってしまった。だから彼も頷いてこの美術館にやってきて、を探すために一度別れたのである。ユーフェミアは心配だった。今日は自分が式典に呼ばれている所為でこの美術館内は厳重な警備が敷かれているが、その分人間の出入りも激しい。もし本当にがこの美術館内にいるとしたら、周りを警備で固められている自分とは違い、彼女は危険に晒されることになる。表舞台に立つことが少ないではあるが、もし反ブリタニア勢力の人間がこの美術館に侵入していれば、恐らく狙われるのは警備が薄い の方なのだ。スザクも戻ってきていない。誰が撃たれたのか、ユーフェミアは心配でならなかった。
「ユーフェミア様、一度政庁に戻りましょう」
タイミングよく、その車の扉を開けたダールトンが顔を覗き込ませる。銃声の後すぐに車内に連れ込まれたユーフェミアはこの騒動の詳細は何一つ分からない。ユーフェミアは縋るようにダールトンに問うた。
「誰なのです、誰が撃たれたのですか」
言えばダールトンが苦い表情を見せた。ユーフェミアは目を見開く。
「…どうやらこの美術館に来られていた殿下の側近、枢木スザクが撃たれた、との報告が」
悪い予感ほど、的中するものはなかった。飛び出そうとするユーフェミアを慌ててダールトンが制止するが、ピンク色の姫君はそれに眉を寄せると反対側の扉を開けて車の後ろを回り込み、信じられないような速さでざわめく人ごみの中に消えていった。美術館内はまだ安全ではない、ダールトンは一度唇を噛むと、懐の拳銃を確認し、踵を返す。
人ごみを押しのけ、二階へ急ぐ。階段を上ったところで軍人に止められるが、彼らはその人物がユーフェミアだと分かると対処に困ったのか、制止の力を弱めた。その隙をついて軍人を押しのけたユーフェミアは医療班の群がるそこを見て絶句した。
「くるるぎ、!…くるるぎぃっ!」
横たわる血まみれの少年と、それに縋りつく少女。少女はユーフェミアが今だかつて見たことのないような形相で泣き崩れていた。いや、ユーフェミアはその泣き顔自体、見ることが初めてだったかもしれない。いつも仏頂面のブリタニア皇女、は医療班に手当てを受ける自身の側近の名前を呼びながら泣いていた。
「!!」
ユーフェミアが叫ぶ。彼女に気づいたは、その菫色の瞳に涙をいっぱい溜めてユーフェミアを見た。
「ゆ、ゆふぃ、…どうしよう、くるるぎがっ!くるるぎが」
彼女の白い手も真っ赤だった。視界の端には軍人に取り押さえられて発狂する男性が一人、見えた。
「大丈夫、、落ち着いてください!」
「わ、わたしの、わたしのせいだ、どうしよう、くるるぎ、くるるぎが…っ」
の肩にそっと触れる。ぼたぼたと赤い絨毯に吸い込まれているの涙。ユーフェミアは錯乱するを優しく抱きしめ、その背中を擦った。担架に乗せられ、漸くスザクが運ばれていく。の小さな身体は震えていた。涙は止まらない。ユーフェミアは息を呑んだ。こんなの姿を初めて目の当たりにしたのだ。いつも気高く自由奔放に振舞っている彼女の面影はまったくない。そのときユーフェミアは初めての身体が自分より小さく、頼りないことを知った。
白い個室にはいた。高い無機質な音が等間隔に鳴り響いているそれは、スザクの病室だった。はスザクの横たわるベッドの脇でその手を握り締めたまま、項垂れていた。病院に運ばれたスザクはすぐさま手術を受けた。銃弾は無事摘出、今は意識も安定している。
「…」
あれから数時間、外はすっかり日が落ち、暗闇の中に煌々と街明かりが灯っている。意識は安定していると医者はいったがスザクが起きる気配はなかった。
健康的なその大きな手のひらを握って、は顔を上げた。このままスザクが起きなかったら、どうすればいいのか。どうして自分はあの男の不審な動きに気づけなかったのか。普通にしていれば確かにあの男の動きは不審だった。観察力の鋭い自分が気がつかないはずはなかったのだ。なのに、意地を張っていた、あのとき自分はスザクにあっさり見つかってしまったのと、胸の中にもやもやと引っかかることがあって、回りが見えてなかったのである。
あのときは、スザクに怒りにも似た感情を抱いていた。昨日のことがあったというのに、あまりに何事もなかったかのように、いつもどおりに接してくるスザクには苛立っていた。別にどうこうしてほしいわけではない、だけどあの何事もなかったかのような、あの表情が、はどうしても、許せなかった。しかしスザクの接し方は正解である、逆に昨日のことのせいで接し方を変えられれば回りだって変に思うし、何よりのスザクに対する気持ちが変わってしまうかもしれない。だから結局のところ、だってスザクのあの今朝の接し方に安心に似た感情を感じた。は自分が矛盾していることに気づいている。何事もなかったかのようなスザクが許せないというくせに、しかしそのあまりに自然な彼の態度に安心している自分もいる。簡単にいえばの主張はただの我侭である。欲を言えば、スザクの態度からは変化は見れないが、彼の中でのへの見方が変わっていればいい、それがの望みだった。無論、何事もそんなに甘くない。は結局、全部全部分かっていた。矛盾も、己の願望も、そしてどれほど自分が醜く、哀れなのかも、全部。
「…、馬鹿だな、わたしは」
だから誰からも愛をもらえないんだ。
は静かに目を閉じた。
初めて会ったとき、初めて彼を見たとき、そして初めて彼が自分に笑ってくれたとき。あのとき今まで感じたことのないような温かい何かを、は確かに心臓の奥の方で感じ取っていた。それが好き、という感情に繋がっていることなんて露知らず、だけどは彼を傍に置いておきたいと思った。初めてだったのだ、誰かに執着している自分が。あの日からずっと傍にいるスザク、だけど関係はただの皇女とその側近。それにスザクのへの感情は恐らく面倒くさい皇女、ぐらいだろう。は知っている、今も昔も、自分が誰にも必要とされていないことが。
だからこうして全ての柵を外した今だけでも、この手を握れたら、とは思う。この指先から、自分のえもいえぬようなこの温かい感情が彼に伝わればいいのに。の意識はゆっくり溶けていった。