泣きそうになりながら

が目を覚ましたのは翌朝の8時過ぎだった。手に感じる温もりは、自分がいつまでも握っていたスザクの手から伝わるもので、は慌ててその手を放した。どうやら昨晩、ここでスザクの様子を見ていたまま、眠ってしまったらしい。肩に掛けてあるこの毛布は、恐らく様子を見に来た医者か看護婦がかけてくれたものだろう。依然、スザクの意識は戻らないままだ。は眉を寄せてから、唇を噛んだ。

「皇女殿下、」

医者が病室を訪れたのは、が目覚めてからすぐだった。カルテをもった彼はスザクの脈拍を取り、点滴の量を確認するとさらさらとペンを走らせる。スザクの容態を尋ねると、大丈夫ですよ、と笑顔で返すものだからは心底安堵した。

「それより殿下もお休みになられてください、昨夜からずっとこの病室におられますし」

「私は大丈夫だ、…枢木は、いつ起きるだろうか」

「容態は安定していますから、正午ぐらいには目を覚ますかと」

スザクの顔を覗き込む。顔色もよく、今はすやすやと眠っているだけのようにも見えた。はまた、安堵の息を漏らしてから立ち上がった。長い時間椅子に座っていたせいか、様々な関節が音を立てる。かけてあった毛布をその椅子に戻し、は扉へ向かった。

「…、私は一度戻る、枢木が目覚めたら教えてくれ」

「イエスユアハイネス」

そう敬礼した医者を振り返らずには病室を後にした。確かに彼の言うとおり、自室に戻って休んだ方がいいかもしれない。無理な体勢だったせいで背中も腰も、ずきずきと変に痛む。けれどこんな状況下でおちおち眠っていることなどできるはずもなく、自室へと戻ったは、脱走するために着込んだその私服にひさしの長い帽子を被った。この政庁からこっそり抜け出すことは得意中の得意だ。皇女の側近が撃たれ、今だ騒がしい政庁ないだがはそんな騒動に耳を貸す様子もなく、再び政庁を抜け出した。

「…、」

が向かうのは街中にある喫茶店だった。政庁から喫茶店までの道のりは決して遠いわけではないが、近いと言うわけでもない。は颯爽と並木道を抜け、一度開けた広場の時計をみた。時刻は9時を少し過ぎた頃だった。広場には笑顔の飛び交う民衆が、のことなどまったく気づかずに隣をすり抜ける。はそんな彼らを遠めに、喫茶店へ向かった。

名前はアレスタント、こじんまりとした店構えだが入り口に飾ってある小さな花々が、その時期によって装飾替えされるのがは好きだった。ガラス張りの扉を押すと、からんからん、と鈴が鳴り外の日差しより少し弱い光がを出迎える。まずレジと、ガラスの奥に綺麗に並べられたケーキがそこにあって、視線を横に動かすと5組ほどが座れる小さな席があった。喫茶店、というよりも洋菓子店、と言っても妥当かもしれない。鈴の音にレジの奥から店員が顔をのぞかせる。

「いらっしゃいませ」

女性店員はの姿を確認すると、にっこりと微笑んだ。

「いらっしゃいませ、何にいたしますか?」

「ああ、えーと、そうだな、あのケーキはまだあるか?」

はこの店の、所謂常連客であった。もともと甘いものが好きなは前に脱走した際、偶然この店に立ち寄ってその味に惚れ込んだのだ。以来、週一度ほどのペースでこの店に来てはケーキをひとつふたつ買って帰っている。が来ると必ずいるこの女性店員は勿論、の素性を知らない。だからこそ、客と店側、という立場はあったが、それ以上の隔たりはない。はそれが好きだった。此処に来ると、客も店員も、誰も自分をああいう目で見たりしない。が日常的に感じる、あの忌まわしいものを見るような目で、誰も自分を見ないのだ。
女性店員は一度にっこり微笑んでからはい勿論、とトレーの上にケーキを一つのせた。
あのケーキ、とは少し前にがスザクを側近護衛につけて初めて街にやってきたとき、食べたケーキである。はよく名前を覚えてはいなかったが、帰り際においしかった、と伝えると店員が嬉しそうに礼を言っていたのを覚えていた。だから彼女もあのケーキ、で伝わったのだろう。

「おひとつでよろしいでしょうか?」

「ああ」

ピンク色の可愛らしい箱にケーキを詰めるのを遠めでは見ていた。
あのとき、ぎこちなさそうな雰囲気のスザクがおいしい、と笑ったケーキ。彼が目を覚ましたら渡そうと思っていた。また、笑ってくれるかもしれない、なんて。スザクがの前で見せる笑顔はどこか、嘘っぽくて、そして遠い。素直においしい、と感じるものを食べたからかもしれないが、スザクのおいしい、と言って笑った顔が、はどうしても脳裏から忘れることが出来ない。そう、あのとき、初めてスザクがの前で見せたあの笑顔と、同じ笑顔だったのだ。

「ありがとうございました」

上機嫌で店を出る。喜んでくれるだろうか、は手にした小さな箱をみて小さく微笑んだ。

その日は脱走ではなく、外に出たい、というの要望に珍しく公的なもの以外で外出が許可された。そのときも同じような私服に身を包んだと、同じく私服のスザクがまず向かったのはその喫茶店、アレスタント。がその店の従業員と親しい、ということを知ったスザクは少し驚いた顔をしていた。そして出てきたケーキにスザクは思わず笑んでしまったのだろう。はスザクの笑顔を一瞥してから、彼に気づかれぬように笑みを零した。まるで、ただの友人といるような、そんな気を感じてしまった。堅苦しくて、息苦しいあの貴族や皇族達とは違う、安心感を、あのときは感じた。

政庁へと戻って、スザクのいる病室へ向かった。容態は安定しているようだからそろそろ目を覚ます頃だろう。は緩みそうになる口角を必死に押さえて廊下を歩く。あと数歩で病室、そんなところでは聞き覚えのある声を耳にした。

「…、」

足を止める。それからそっと壁際に身を寄せて、廊下側に面して取り付けられている窓の奥を見た。

「っ」

見えたのは、ピンク、それから黒。ベッドの上のスザクは楽しそうにユーフェミアとルルーシュと談笑を交わしていた。急に心臓の奥が痛くなる。はどうすることもできずに、ただそれを盗み見することしか出来ない。思わず後ずされば、病室の扉に取り付けられている赤外線がの身体を感知して、無常にもそれは空を切って開いた。

!」

まず扉が開いて一番にを見たのはユーフェミアだった。同時にルルーシュとスザクの視線を感じる。はその翡翠を見てからすぐに目を逸らした。

「よかったわ、スザクが目を覚ましたからちょうどお医者様の方にを呼ぶようにと言ったんだけど、」

「会わなかったか?」

「…い、いや、見ていない」

なんで彼らがここにいるんだろう、とは思った。そして身体の中に溢れるこの感情が何なのか、とも思った。はユーフェミアとルルーシュを見ることが出来なかった。ただ視線を足元に漂わせて、病室に足を踏み入れようともしなかった。

「さすがスザクの生命力だ、もうほとんど傷も塞がりかけているらしい」

「ブリタニアの最先端医療技術に感謝しなきゃなー」

スザクが笑う。はうまく、笑えなかった。

「…あら?、それは?」

ユーフェミアの視線が自分の持っていた箱へと移動したのを知ると、は慌ててそれを隠した。ユーフェミアが何かに気づいたような表情をする。それから嬉しそうに微笑むと、両手のひらを顔の前で合わせた。

「もしかして、それ、スザクに…」

「ち、違う!」

口をついて出てきたのは思ってもみない否定の言葉だった。ユーフェミアが目を丸くする。

「ロイドに、頼まれたんだ。ま、まったく何を考えているんだろうな、あいつは」

「ロイド、…アスプルンド伯爵に?」

「それに、何故わたしが枢木なんかにこんなもの買って来ると思うんだ、見舞いにそんなもの期待されては困るな」

がふ、と口元を歪める。スザクの笑顔がすぐに苦いものに変わった。それにが気づいたところで、しかし今更訂正のしようはなかった。ふと、ルルーシュの表情が曇る。

、お前少しは心配しないのか?」

「…心配だと?」

ルルーシュの咎めるような口調に、自然との返答も重いものになる。黒の瞳がす、とアメジストを見た。

「スザクはお前を庇って怪我をしたんだろう」

「そうだったかな」

「…その言い草は、ないんじゃないか」

その言葉には眉を吊り上げた。

「ルルーシュ、枢木はわたしの側近護衛だ、主を庇って怪我を負うことぐらい、珍しいことじゃない」

「そういうことを言ってるわけではない、心配の有無を聞いているんだ、守ることが仕事でも怪我の心配くらいは普通の人間として、するのは当たり前だろう」

ユーフェミアがおろおろとルルーシュとを交互に見やる。病室内の空気が一気に淀んだものに変わった。はぐ、と唇を噛み締めてルルーシュを睨んだ。何も知らないくせに、その意味を込めてアメジストをきつく睨む。

「お前には関係ないだろう、現に枢木は今こうして無事なんだ、それ以上に何を望む」

「だからそういうことじゃないと、」

「枢木がそう言ったのか?わたしに心配されたいと?ふ、図々しいにもほどがあるな、主を守れたという功績が残ったんだ、逆に感謝してほしいくらいだな」

誰かに口を塞いでもらいたい、はそう思った。眼前でルルーシュの表情がついに歪んだのを見て、嘲笑めいた笑みを濃くする。駄目だ、もう、何も言わなくていい、心の中でそう思っても、ルルーシュに言われた言葉にどうしても反発してしまう自分がいた。

「お前、!」

「大体、ルルーシュ、お前につべこべ言われる筋合いはない…!これはわたしと枢木の問題だ!」

頭に血が上る。ぎり、と拳を握った。

「少しはスザクのことを考えたらどうなんだ、お前のことを守ったんだぞ、一歩間違えれば命だって」

「五月蝿い!」

が叫ぶと、ルルーシュが驚いたように口を噤んだ。おろおろとを見るユーフェミアも、何も言わずに黙っているスザクも、何もかも、嫌になってしまった。

!」

「ルルーシュ、」

終始黙っていたスザクが声を上げた。は思わずその翡翠を見る。スザクは困ったように笑ってから、肩を竦めた。

「別にいいよ、確かに殿下の言うとおり功績をいただけたんだ、それに怪我をしたのは殿下の責任じゃない」

「っ」

その言葉に、更に腹が立った。強く唇を噛み締め、くるりと踵を返して逃げるように病室を飛び出す。それを追おうと立ち上がったルルーシュだがすぐにそれは阻まれた。見ればユーフェミアが怒ったような表情で、彼を見上げていた。

「ユフィ?」

「…っ、ルルーシュの馬鹿っ」

そして予想だにしえない怒号に、ルルーシュは目を丸くするしかなかった。勿論、それはスザクも同じである。ユーフェミアはじ、とルルーシュを見てからすぐに破顔すると、深いため息をついた。

「信じられません、ルルーシュ、」

「は?」

のこと、何も分かってないんですね」

その言葉には確実にユーフェミアの怒りにも似た感情が含まれている。ルルーシュはまったく意味が分からないといった様子でユーフェミアを見る。ユーフェミアは再び困ったようにため息をついてから口を開いた。

はああ言っていますけど、本当はすごくスザクのことを心配しているんですよ」

「は?」

「え?」

素っ頓狂な声が二方から上がる。あのの言動からスザクを心配している、という事実に結びつけるのは些か難しい気がするのは、ルルーシュだけではなかった。

は相手に感情を伝えるのが下手なだけなんです、それをルルーシュが煽るから…」

「俺は事実を言ったまでだっ」

「それが間違ってるんです、ルルーシュ、貴方は知らないでしょうけど、、昨日から今朝までずっとこの病室でスザクが目覚めるのを待っていたのよ」

ルルーシュとスザクが揃って驚いた表情を見せる。ユーフェミアはスザクのベッドの脇に置かれた毛布を手にして瞳を細める。

「今朝早くに私もここに来たんです、そしたらがスザクの手を握ったまま寝てしまっていて、お医者様に聞いたらもう昨日からずっといるって、」

「…、」

「スザクが撃たれたときも、すごく泣いて心配していたわ。…あの箱だってきっとスザクに買ってきたものなのよ」

スザクは信じられない、と眉を寄せた。あのが自分を泣いて心配していた?手を握って眠ってしまっていた?信じられない、ユーフェミアが嘘をつくような人間にも思えないが、その事実はあまりにスザクの予想を超えていた。だってスザクの前のといったら先程のような態度しかとらないのだ。彼女が泣いていただなんて、信じられない。

「多分、恥ずかしくてそうは言えなかっただけで、スザクのこと、心配していたわ」




かさり、と箱を開ける。走って箱を揺らしてしまった所為だろう、取り出したケーキは少し不恰好な形をしていた。スザクに、喜んでもらえると、買ったのに、まったく無駄足だった。それよりも、大変なことをしでかしてしまった。どうして素直に言えないのだろうか、そしてその苛立ちをルルーシュにぶつけるだなんて、迷惑も甚だしい。

「…、」

スザクの言葉が、脳裏に焼きついて離れない。自分を庇うルルーシュに、困ったような笑みを浮かべて。呆れているのだろう、護衛の心配を微塵もしない主に、元々なかったような愛想も全部、つかされてしまっただろう。呆れてため息すら出ない。

「…馬鹿だな」

崩れてしまったケーキを突く。箱に入っていた簡易フォークに、それを一口刺した。口に入れたケーキは、甘いはずなのに、どこか、

「…しょっぱい」

瞳を閉じると、濡れた頬をまた、何かが伝った。