ぬかるみ始めた足元


追い出された、といえば言葉は悪いが、実際はそんなものだ。スザクは自分自身、並の人間より自己治癒力が長けていることを自覚している。しかしいくらスザクの治癒力が目まぐるしいものだからって、ブリタニアの最先端医療が世界でもトップクラスであるからって、銃弾で撃たれた二日後に病室を追い出されるのは、いかがなものか。
腹の傷は確かにしっかり閉じていて、痛みも然程ない。カーキ色の制服の上から数回腹を擦ってスザクは歩いていた。

が怒号を残して病室を飛び出していったのが昨日。ユーフェミアが教えてくれた事実はにわかには信じがたいもので、スザクは耳を疑ったのを今でも覚えている。昨日のあの瞬間から、のことは見ていない。恐らくは執務室に閉じこもっているのだろうが、彼女の元を訪ねたルルーシュにも会っていないのだから、あのお姫様の機嫌がいかがなものなのか、スザクには見当もつかなかった。今だ怒っている可能性、50パーセント、既に熱が冷めていつもどおりに戻っている可能性、40パーセント、すねている可能性、9パーセント、…泣いている可能性、1パーセント。
スザクはそこまで思案して慌てて首を振った。いくらなんでも最後の可能性はありえない。がスザクに対して切れ、彼女が泣いているはずなどありえない。大体、結局が何に対して怒っていたのか、スザクには今だ謎のままである。ルルーシュの言葉に切れていたようには見えたが、良く考えれば彼女はあの程度のルルーシュとの言い合いであそこまで憤慨するはずはない。もっとルルーシュに負けず劣らずの屁理屈と言う名の理屈をこねくり回して、もっと冷ややかな言い合いになっていただろう。それでは何故。彼女は何に対して憤慨したのだろう。
自分が情けなくも撃たれてしまったこと、スザクに思い当たる節はそれしかなかった。自分の功績に酔っているわけではないが、そのことで本気で怒っていたとすれば、存外も酷い人間だ。ユーフェミアはああは言うけれど、自分の部下が撃たれて怒っているなど、なんて冷徹な人間か。しかしスザクにはどうも、そうも思えなくて、やはり彼女の不機嫌の理由を突き止めることは出来なかった。


「あら、スザク君!」

結局、あのまま執務室に向かうことは出来ずに、スザクは自身の主の下へ行くより先にこの特派へ足を向けていた。ブースに入ればすぐに上司であるセシルがスザクの姿に気づいてにっこり微笑む。その手に持っていた握り飯は極力視界に入れないようにしながら、スザクは軽く会釈した。

「もう傷の方は大丈夫なの?」

「あ、はい、おかげさまで」

「そう、もっと大事をとってお休みしててもよかったんだけれど…」

そう自分の身体を気遣ってくれるセシルに悪い気など勿論しないが、本当にそう思っているのなら手に持っている握り飯を勧めないで欲しい、とスザクは思った。

「おっやあ、スザクくーん、もう退院かい?早いねえ、さすがだねえ」

と、そこで奥から顔を覗かせるロイド・アスプルンド。手にミネラルウォーターのペットボトル(2L)を持っているところ、彼もこの握り飯の餌食になったと見て、間違いないだろう。やんわりセシルからそれを断って、スザクは当初の目的を思い出した。

「そしたらに何を買ってくるように頼んだか、聞くんですよ」

昨夜のユーフェミアの言葉、それが意味している内容をスザクは理解できないままに、とりあえず頷いていた。ユーフェミアはの言葉を信じていないのだろうか、しかしあの笑顔があまりにも嬉しそうなものだったから、ただ疑念を抱いているわけでもなさそうで、スザクはただただ首を傾げることしか出来ない。とにかくロイドにへ、昨日何を買ってくるように頼んだか、聞けば全てが分かる。疑いもせず、スザクは口を開いた。

「ロイドさん、」

「なあに?」

「昨日、殿下、殿下に何か買ってくるように頼みましたか?何か、甘いもの、デザートとか…」

口に出して言葉にしてから、スザクははっとした。目の前のロイドは不思議そうに首を傾げてからはあ?と素っ頓狂な声を漏らす。あれ、おかしい。

「ちょっとちょっとスザクくーん、それ心理テストか何かかい?生憎僕はそこまで暇じゃないんだよねえ、悪いけど他を当たってね。あ、それとランスロットの数値計りたいから着替えてきてくれると助かるんだけど」

仮にも一昨日銃弾を受けた人間に対する言葉ではないだろうに、とスザクはそこまでは思考が回らなかった。先ほどまであった疑問が、熱が引いていくように、すんなりと答えがスザクの中に導かれた。ああ、そうか。ユーフェミアの言っていることが、合っているような気がする。一部だけ。スザクは納得した。
ありえない、そう、ありえないのだ。いくらとロイドが普通の皇族と研究者、という立場よりずっと仲が良くても。一研究者に過ぎないロイドがどうして皇女であるをパシりになど使えるだろうか。答えは勿論否だ。出来るはずがない。というより、仮にそうあったとしても、がロイドの指図などを受けるとも思えなかった。のロイドに頼まれた、と言っていたあの洋菓子屋の箱は、本当に自分の見舞い品として彼女が買ってきたものなのである。

「…はあ」

何だこれ。スザクは頭を抱えた。何だこの状況、自分にどうしろと言うのだ。全く訳の分からない展開に、最早疑問すら抱けない。あの自分を毛嫌いしているが、何故自分を心配するような真似を。瞬時にユーフェミアの言葉が思い出されるが、残念ながらスザクの記憶の中にあるでは、彼女が言っていることを再現することができない。つまり自分のことを本気で心配していたの姿を、スザクはこれっぽちも思い浮かべることが出来ないのだ。
唐突にため息を漏らしたスザクを不思議そうに、セシルが目を丸くする。のところへ向かったほうがいいのだろうか、スザクは考えた。



「…はあ」

同じ頃、異様に広い部屋で少女は一人憂いに満ちたため息を吐き出した。手にしたペンは一度も書類の上を走ることなく、ただその華奢な指にくるくると回されるばかりである。少女、は再びため息をついた。
スザクが退院したことは、今朝方耳にした。早すぎはしないか、と思ったが彼の身体能力を考えればそんなこともないような気がする。ただ、今朝方退院したというのに、正午を回っても彼の姿を一度も見かけないということは、スザクはまず此処に向かったわけではないということだ。そりゃあそうだろう、昨日の今日、主である自分に心配もされず、散々怒鳴られ、傷口を広げるような行為をされて、一番に自分の顔など見たくないのだろう。自分で思案して、落ち込む。はべたり、と行儀悪くデスクに額を当てた。

「馬鹿だな、わたしは」

愚者のすることを、なぞるように自分は今行動している。イエスをノーだと言い、ノーをイエスと言い、素直にならず、ただ自分の感情をぶちまけて、自己嫌悪。情けない、みっともない。本国にいるであろう自分の異母兄弟達からの批難の声が聞こえてくるようだった。
自分は何をしたいのか、どうしたいのか、にはまだ分からなかった。どうして自分の思っていることを、的確に言葉にして伝えられないのだろう。そういう技術には長けていると自負していたくせに、この有様だ。情けなくなる。デスクの上のものを全て放り投げてしまいたい衝動に駆られながらも、は顔を上げる。

どうしたらいのだろうか、スザクと仲直りしなければ。

暫くデスクの上に顎を乗せたまま微動だにしなかった少女は、突如立ち上がり、着ていた衣服を脱ぎ捨てた。変わりにチェストに仕舞われていた、地味な色のパーカーとホットパンツを身につけ、出で立ちを全く皇族のそれをかけ離れたものにして、長い髪の毛を被った帽子の中に押し込む。

「…よし!」
曇天が街を見下ろすその最中、少年がその執務室を訪れる30秒前に少女はそこを離れた。