思い描くのは愚鈍な彫像

自分がスザクと出会ったのは、何もそんなに昔のことではない。というより、寧ろ最近、と捉えた方が正しいのかもしれない。日本に留学していたようなルルーシュと違って、がスザクと会ったのは、単なる偶然でしかなかった。ルルーシュにくっ付いてこの日本にやって来たあの日、本国にいたときから割かし親しかったロイド・アスプルンドを訪ねに特派のラボへ向かったのが、恐らく最初だったと思う。奥から顔を覗かせた明らかにイレブン上がりの顔つきをした少年。別に、そのときは何も思わなかった。ただ、彼の瞳は、あの翡翠は、なんとなく今まで本国でいやというほど浴びていた貴族の人間達からの視線とは、違って感じた。スザクにしてみれば、なんでもなかったのだろう。ただ、物好きな皇女もいるのだ、そのくらいにしか捉えなかったはずだ。それでもは嬉しかった。話してみると、枢木スザクと言う少年はひどく猫かぶりな少年なんだということに気付いた。しかし猫を被っていながらも、あの態度。一応こちらは皇女だというのに、スザクは平気の平左でを見下ろしてくる。普通なら憤慨してもおかしくない態度ではあったが、にはそれが、嬉しかったのである。決して忌み嫌うような瞳ではない、今までの人間達と自分の間にあった壁が、不思議とスザクの間にはなかったような気がしたのだ。

スザクを側近護衛につけると決めて3日後。初めての自室を訪れたスザクに、は例のアレスタントで購入した茶葉で彼に紅茶を淹れた。恐る恐る、といった感じのスザクも、そのとき、初めて笑顔を零した。殿下は、紅茶を淹れるのがお上手なんですね、なんて。殿下の淹れる紅茶、好きですよ、なんて。建前に決まっている、お世辞に決まっている。それでもにとって、そんな言葉は初めてだった。本国にいたころ、紅茶なんて他人に淹れてやったことなんてないし、褒められたこともなかった。何かと自分を白い目で見る貴族達に囲まれていたにとっては、スザクのその本音で無い言葉でさえも、あまりにも新鮮で、幸せだった。

多分、その頃から、自分は、きっとスザクを


政庁を出ると、曇天が広がっていた。少し肌寒く、湿った空気が頬を撫でる。嫌な天気だな、と心中で呟いて足早に見慣れた道を歩く。が向かっていたのはアレスタント、例の喫茶店だ。こうも連日訪れるとなると、店の女性も驚くだろうか、いや、笑ってくれるだろうか。の目的は、名前も知らない、あの茶葉を買うことだった。アールグレイよりかは、香り高く、それでも甘みの強い、あの紅茶、確かに美味しかった。は自然と笑んだ。
このままスザクとギクシャクし続けるのは耐え難い。何もフィクションの話のようにうまくいくとは思ってはいないが、はあの初めてスザクが笑んでくれた日を、もう一度この手で再現したかった。もう一度スザクに笑ってもらいたい、素直に謝れはしないが、それでもまた、いつもみたいに小さな口喧嘩をして、脱走して、見つかって、そんな些細な日々を繰り返す日常が欲しかった。は気付いた。にとって、多分スザクは全てだった。自分のこのつまらない箱庭の日々を変えてくれたのは、きっとスザクだった。だからそんな彼との日常を壊したくない。一人だとこんなにも素直に答えが出るのに、どうして人前だと素直になれないのだろう。笑みを浮かべながらも、は落胆した。

店に着いたのは本格的に雨が振り出しそうになってからだった。からんからん、と聞きなれた鈴の音を聞き、少し遅れて店の奥からやってきた店員に微笑む。

「いらっしゃいませ」

あちらもに気付くと、すぐに微笑んでケーキを入れる箱を用意し始める。

「あ、今日はケーキを買いに来たわけじゃないんだ」

慌ててそれを制止して、は名前も分からない紅茶の茶葉を買いに来たことを告げる。ただ美味しくて、甘い紅茶だった、としか説明の無いの言葉に、店員の女性は少し考えるようにして、店の奥へ消える。30秒ほどして、女性はソーサーもなしに、湯気を立たせたグレーのカップを手に戻ってきた。漂う香りが、の表情を柔らかくさせる。

「お客様が一度購入なさったのは、こちらだったかと」

「…覚えているのか」

「お客様は特別です、いつもいつもお世話になってますから、覚えてますよ」

微笑む店員からカップを受け取り、一口それを口につける。広がる香りと甘みに、ああこれだ、とは思わず笑みを零した。

「こちらは輸入量も大変少なく、お店に置いてあるのも稀なんですが、お客様、毎回運が良いようで」

「そうだな、良かった。それ、一袋もらえるか?」

「かしこまりました」

慣れた手付きで小さな茶色い紙袋に、ビニール詰めの茶葉が入れられる。先日もそうだったが、自分はどうもスザクを食べ物で釣っているような気がしてならない。それでもその食べ物で自分にとってかけがえのない思い出が創造されているとなれば、それも悪くないと思った。

帰ったらスザクを呼ぼう。また、初めて会った時みたいに、スザクに笑ってもらおう。そうしたら、謝れるかもしれない。わたしのせいで怪我をさせて悪かったと、怒鳴って悪かったと。そして本当は心配していたんだと、本当のことを言おう。


ありがとうございました、と笑む店員に軽く手を上げて、店を出る。外はもう既に小雨がぱらついていた。これは走って帰らないとな、と紙袋を右手に抱えなおして勢いよく店を飛び出す。ところどころにある屋根つきの出店の前で雨宿りをしつつ戻ろうと考えていたは、通りがかった公園で、罵声を聞いた。

「てめえ、自分の身分わきまえろよ!イレブンが!」

吐き捨てられた、汚い罵声。は足を止めた。
公園の中央、ちょうど噴水の前辺り。雨が降ってきた所為で人気が疎らのそこで、一人の男性が地面に蹲っていた。それを囲むように、4人ほどの若い男性。体格、顔つきからして若い男性はブリタニア人、そして蹲る男性は先の言葉通り、イレブンなのだろう。蹲る男性を一人が蹴飛ばして、転がり出た財布を取り上げた。唸り声を上げて男性は彼らに手を伸ばし、懇願するが、すぐにニット帽を被ったリーダーらしく男性がそれを蹴り飛ばすことで制止した。男性は地面に這い蹲って、泣いた。

「おいおい、敗戦国の人間が何金なんて持ち歩いてんだよ。これは俺達が没収しといてやるよ」

「…す、すいま、せ…、お、お願い、ですから」

「口答えすんじゃねえよ!ゴミが!」

いつのまにか、髪の毛がしっとり湿っていた。けれど、そんなの、全く気にはならなかった。つかつかと、男性に群がる彼らに歩み寄る。一人がの存在に気付いて口を開いたが、瞬間、はその頬を殴り飛ばした。

「がっ!」

不気味な音を立てて、一人の男性が地面に吹っ飛ばされる。そのことでの存在に気付いた3人は目を丸くして、後ろを振り返る。恐怖に満ち満ちた瞳で、這い蹲る男性も、を見上げた。

「貴様達みたいなゴミを見てると吐き気がする」

人一人射殺せるのではないかと思われるほど、の瞳は鋭かった。思わず動きを止める彼らの間を縫って、の手が蹲る男性に伸びる。しかしその白い手を男性が取ることはなく、彼は隙が出来たと知ると、一目散に逃げ出した。雨が降っている。男性が逃げ出したのを見届けて、は立ちすくむ三人を睨んだ。
護身術は、教わった。多分、喧嘩慣れしていないような貧弱な彼らぐらいなら、一人でどうにかできる気がした。は微塵も恐怖心を感じてはいなかった。

「…ちょっと、お嬢ちゃん、何してくれてんのかなあ?」

男性が逃げ去ったことで我に返ったニット帽の男がに近づく。自分と男の距離があと一歩縮まったら蹴り飛ばすつもりでいたは、ふいに後ろからの衝撃に、目を丸くして、体勢を崩した。

「っ!」

正面にはにたにたと気味の悪い笑みを浮かべる男が三人いる。首に回る、第三者の腕。横目で足元を見ると先ほどまで倒れていた、が殴り飛ばした男が見当たらなかった。は小さく舌打ちした。

「餓鬼が大人の事情に首突っ込んでんじゃねえ、よ!」

いつの間にか目の前にいた男がの鳩尾を力いっぱい殴った。息が詰まって、一瞬だけ意識を手放しそうになる。身体中の力が抜けてその場に崩れそうになるが、先ほどから自分の身体を後ろから羽交い絞めにしている男の腕によって、それは叶わない。完全に男に身体を預ける状態になって、はごほごほと咳き込んだ。

「何々、ありきたりな正義感ってやつ?お嬢ちゃん、見たところブリタニア人だしさあ、こーんな可愛いし、お兄さん殴ったお礼、してくれるよね?」

視界が霞む。何処にも力が入らないまま、そのまま後ろの男に引きずられるように、公園の中央から移動させられる。少し通りの脇を入った路地裏。依然自分を後ろから羽交い絞めにする男はそのままに、残りの三人がの前にゆっくりと歩み寄る。太い指がの頬を滑った。畜生、は毒づいた。後ろを取られたばっかりに、なんて情けない。せめてもの抵抗とばかりに、鼻と鼻がくっ付くほど近づいた男の顔に唾を思い切り吹っかけてやった。途端、眉を吊り上げて、男は手を上げた。

「ぃぐ…っ!」

拳で、右頬を殴られた。口の中に広がる鉄の味。どくどくと、頬が脈打った。

「は、随分威勢がいいじゃねえか、ちょっと上物そうだったから優しくしようと思ったけどやーめた、おい、思いっきりやっていいぞ」

ニット帽の男はやはりリーダーだったらしい。脇に控えていた男がさっと前に躍り出て、の厚手のパーカーのチャックを下ろす。下に着ていた薄いインナーの生地を思い切り引っ張ると、あっさりそれはただの布切れと化した。さすがに危機感を覚えて、目を見開く。

「き、きさまらっ、わたし、を誰だと…っ!」

「ハア?何ほざいてんだよ、餓鬼が、黙って俺らの邪魔したこと反省してな」

身元を安易にばらすことは賢明ではないが、こんな状況になったのでは仕方ない。自分がブリタニア皇女だということを口にしようとした矢先、しかし男は目ざとくそれに気付き、の口に自分の太い指を突っ込んだ。

「叫ばれても困るしなあ、つっても、こんなとこ、誰も通らないだろうけどよ」

にったり。笑った男達に涙目で睨んでも、何の効果も得られない。
畜生、畜生、こんなやつら。こんなやつらに構ってる暇なんて、ないのに。わたしは、はやくスザクのところに。畜生、こんな、なんで

「…っ、」

雨が次第に強くなってきた。の指からするり、と紙袋が落ち、気味の悪い音を立てて濡れたコンクリートに吸い込まれる。
は思った。どうして、こんなとき頭の中には、彼しかいないんだろう。