「おめでとう」

路地裏で、珍しく息を切らして、壁に背を預け座り込んでいる青年に、少女はまったくの無表情で手にしていたそれを差し出した。はあはあ、と肩で息を続け、疲労困憊、といった青年、折原臨也はそんな少女を睨み上げてから、ふ、と口元をゆがめた。

「君、随分いい性格してるよ」
「ありがとう、嬉しくはないな」
「大体、そんなのいつ買ったの?俺のことずっと見てたわけ?」

言葉こそ余裕が感じられるようなものだが、実際臨也の整った顔面は血で汚れ、ジャケットはまだ無事なものの、ズボンは裾の方などほとんど擦り切れていた。まるでどこか紛争地域から戻ったような出で立ちの臨也は、口の中に溜まった血反吐を暗い路地に吐き捨てた。
池袋の自動喧嘩人形、平和島静雄と折原臨也は犬猿の仲である。今日も今日とて、懲りもせずこうして池袋に繰り出してきた情報屋を、運悪く、静雄が見つけてしまったのは1時間以上前のこと。それから死闘に等しい追いかけっこを続け、公共物を投げまくる彼から逃げていた臨也なのだが、今日は何故か、本当に、運悪く、何故か、彼の投げたコンビニのゴミ箱をまともに食らってしまった。その場に倒れこみ、しかし慌てて立ち上がって逃げ出そうとしたのだが、静雄の渾身のストレートがわき腹を掠った。掠った、といえば表現は軽いが、実際掠ったのはあの静雄の渾身のストレート。サイモンでなければ、あんなものまともに食らえば、よくて骨が砕け散り、悪ければ今ごろあの世行きだ。臨也はなんとかその場から彼を撒いて、路地裏に滑り込んだのである。ずるずると壁にもたれかかり、その場に座り込む。あの馬鹿力、本当に厄介だ。臨也は呼吸が苦しくなるのを感じながら、なんとか息と整えようと、痛むわき腹を押さえた。額から、ぬるりとしたそれを感じて、畜生、と心の中で毒づく。これでは暫くまともに歩き回れない、1時間以内に無事に新宿に戻れるか否かだ。

「はー…死ねよ、シズちゃん」

どくどくと痛む箇所が脈を打つ。暫くそんな格好をしていた臨也の下へ、路地裏の暗闇とは打って変わって、夜だというのに明るい通りからひとつの足音がやってきたのはすぐのことだった。顔を上げた矢先、冒頭の言葉。臨也は視界いっぱいに広がる花々をまだ痛みの少ない左手で掴んで、思いっきり毟った。

「ひどい」
「どっちがだよ」
「花束ってね、そんなに安くないんだよ、わたしのお小遣い削ってせっかく買ってあげたのに」
「さっきの質問に答えてよ、いつから見てたの?」

臨也が笑みを消して問うと、少女は丸くて大きな瞳をこれっぽちも動かしはしないで、一度瞬きをする。

「そこの通りに入ったときから」
「じゃあ俺がストレート食らったところは見てないんだ」
「そう、それがすごく残念で…」

折原さんが殴られるところ、見たかったなあ、とまったく抑揚のない声音が響く。

「偶々そこにお花屋さんがあったからさ、折原さんが平和島さんに負けるなんてこと珍しいから、お祝いにお花買ってあげたのに」
「今俺疲れてるからさ、あんまり頭働かないんだけど、とりあえず君が言ってることがまったく理解できないのは疲れのせいじゃないよね」
「頭が弱いせいじゃないかな」
「どうでもいいけど、もう君帰って」

静雄にやられたことでイラついているというのに、こんな少女にどうこう言われては、さすがの臨也も笑顔を取り繕っている余裕はなかった。少女は何も路地裏で座り込んでいる男を見て、何も本当に祝おうと思って花束を買ったわけではない。折原臨也という男に、屈辱というプレゼントとして花束を渡そうとしたのだ。案の定、珍しく臨也は感情を剥き出しにした様子で、少女を睨んでいる。少女は、そこにきて初めて笑った。

「いーや。こんな弱ってる折原さん見れるなんて貴重な体験だもの」
「…ごめん、俺今すっごい苛々してるから、さ」
「?、だから?」

本当に分からない、といった表情を今度はわざとらしく無垢に首をかしげて見せた。臨也は痛む身体に鞭打って、腕を勢いよく少女に伸ばした。その小さい口元を強く掴んで、地面に押し倒す。後頭部を強く打ち付けたようで、一瞬だけ臨也の眼下の表情が歪んだ。暗い路地裏には、通りから差し込む人工的な光が灯るだけである。臨也は少女の細い肢体の上に馬乗りになると、そのまま口元、というよりほとんど顔を掴んでいた手に力を込めた。

「こういうこと、しちゃうかもしれないってこと。嫌でしょ?だから早く帰って」
「…」

弱っているところを、よりにもよって彼女には見られたくなかったのもある。臨也の余裕のない表情に、少女はまた無表情に戻り、ただ無言で彼を見上げた。それから自分の口元を掴む手に、そっと自分の手を重ねて、そこから退かす。ああ、もう、面倒くさいなあ、という心中を臨也は隠すことなく表情に出した。

「嫌です」

にっこり。少女は微笑んだ。

「折原さんだって今はそんなことする力なんて残ってないくせに。強がっても分かるよ。わたしの花束は貰ってくれないくせに、命令は聞けって?そんな従順な人間じゃないの、わたしは」

知っている、彼女が平和島静雄の次、否、彼に匹敵するほど臨也の思い通りにならない人間だということは。臨也は呆れたようにため息をついてから、少女の上から退いた。再び先ほどのように壁に背中を持たれかけさせて、座り込む。少女はついた埃をぽんぽんと払ってから、押し倒されたことによって放り投げられた、少し本数の減った花束を手に取った。

「とりあえずこれは折原さんが平和島さんにこてんぱにやられた記念に、どうぞ」
「別に俺シズちゃんにやられたわけじゃないよ、しかもこてんぱって…」
「わたしにはどう見てもぼこぼこにされたにしか見えないけど」

差し出された花束は、自分が毟った所為で幾分みすぼらしいものに姿を変えてしまったが、花が美しく束ねられているところでは変わらない。しかし何より彼女のことだ、最高級の嫌味を交えたこんな花束は、臨也にとって美しく見えるはずなかった。彼女は臨也がイラつくことを面白がって、喜んでいる。人間は面白い、だから大好きだと豪語する彼でも、自分を屈辱に陥れるために毎日を生きている人間を好きにはれなかった。しかもそれが結構可愛らしい少女がすることだから、なおさら不気味である。

「新宿に帰るの?ていうより、帰れるの?ああ、あの美人な助手さんがいるもんね」
「なんでそんな波江のこと、目の敵にしてるのか、理解に苦しむよ」
「折原さん、頭きれるくせに馬鹿だね」
「…」
「ま、いいや」

少女は立ち上がり、一層綺麗に微笑んだ。臨也はそんな少女を面倒くさそうに見上げて、彼女に向かって手を差し出した。

「とりあえず立たせてくれない?」
「ああ、じゃあ土下座して頼んだら考えよっかな」
「立、た、せ、ろ」
「…まあ、今日はこんな貴重な折原さん見れたし、このみすぼらしい格好に免じて手伝うとしよう」

少女の小さな手が臨也の傷だらけの手を掴んだ。ぐわん、と勢いをつけて立ち上がった臨也は、一度ふらりと立ちくらみを覚えるが必死にそれを堪え、それよりも今だ自分の手を掴む手を思い切り引っ張った。必然的にこちらに傾く細い身体を強く掴んで、その唇に噛み付いた。あまりに勢いがついたせいか、最初がちり、と歯と歯がぶつかり合う。臨也はそんなこと気にもしないで、後頭部を髪の毛を引き抜かん勢いで強く掴み、薄く開いた隙間から舌を差し込んだ。そこで初めて少女の表情が苦痛に歪む、臨也はそれを確認すると、満足げに微笑んで口を離した。

「調子に乗るなよ、餓鬼が」

そう吐き捨ててやれば、少女は一度驚いたように目を丸くした後、ふ、と口角を緩めた。